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『いのちの食べかた』森 達也

2017年9月15日

普段スーパーで売られているパックに詰められた牛や豚の肉は、どこからやって来るのでしょうか?生きている牛や豚はどこに運ばれ、どうやって殺され、誰がその役割を担っているのでしょうか?なぜ、魚の解体ショーがあるのに、牛や豚の解体ショーはないのでしょうか?

私が以前テレビを見ていて違和感を感じたのは、ロケ番組で、生きている伊勢海老が出てきて、それを見てタレントが、「おいしそう」と言っていたのを見たときです。それが悪いと思うとかそういう問題ではなく、そのときに感じた「あれ?」という、ちょっとした違和感を私は今も持ち続けています。

いのちの食べかた (よりみちパン!セ)

スーパーで売られている肉も、レストランで出されるステーキも、ほとんどの人はどういう過程で自身の目の前までやって来るのかを知りません。いや、何となく知ってはいるけど、おそらく薄っすら知っているというレベルだと思います。

森達也さんは、差別や戦争は人間が【知らない(無知)】から起こると主張しています。肉を食べる食べないは、自由だ。でも真実を知って食べるのと、知らないで食べるのとでは全く違うと。過去を振り返ると、牛や豚の肉の処理を担っていた人たちが差別され、それは今も日本に残る部落差別の問題として尾を引いている。「生まれた場所で差別されるなんておかしくない?」と。

かつて私は、牛や豚を飼育している人たちが、例え自分の牛や豚をかわいがっていても、結局は殺すことになるんでしょ?と思っていましたし、実際に屠殺を担っている人たちは、何て惨いことをことができるんだろう?と思っていましたが、それも全て【無知】から来たものなのだと思いました。

動物がかわいそうだから、肉を食べないと主張しても、完全に肉を避けるという食生活は難しく、医療や化粧品の動物実験によって世の中が発展してきたというのは事実かもしれません。私たちは己の正しさを主張しようとすると、いつも世の中にその矛盾点を指摘されてしまいます。ベジタリアンに対する、植物だって生きているというのもそうです。でもだからと言って、、どちらが良い・悪いを判断することができるでしょうか?私たち人間は、もともと笑えるほどに矛盾した存在です。誰に正しさを論じる資格があるのでしょうか?きっと誰にもないはずです。完璧な人間などいないのですから。でもそれでも私たちが、「動物は殺してはいけない」と主張する人も、「毛皮製品が好き」と言う人も、何かを主張するとき、人はいつでも、その人の正義を心の中に持っています。

よく、「なぜ人を殺してはいけないのですか?」や「なぜ自殺してはいけないのですか?」といった質問が論じられることがありますが、万人が納得いくような答えは中々出てきません。「法律で禁止されているから」とか「大切な人が悲しむから」とか、そういう答えは、「なぜ法律を守らなければならないのですか?」、「自分の命だから自分で決めて良いはずですよ」とか、始めから話を聞く気のない人たちに簡単に論破されてしまいます。例えば、ある人が、「人を殺すのは絶対にしてはいけないことだ」と考えてたとして、そう思っていてない誰かを納得させることは可能でしょうか?今まさに戦争中という兵士に、「人を殺してはいけない」と言えるでしょうか?銃を向けられ、今にも引き金を引かれそうな戦場の兵士に向かって、「人を殺してはいけない」と言えますか?

私は正しい答えはどこにもないと思っています。小学校の頃に学んだ道徳の授業のように、解はどこにもないのです。誰も知らないのです。それでは何もできないということでしょうか?そうではなくて、解のない問題において大事なことは、【知る】ことと【考える】ことです。そして、完全な正しさはないと理解することです。私は人を殺してはいけないと思っているし、多くの人も私と同じ意見だと思います。もしも、好奇心旺盛な子供に、あるいは意地悪な大人に質問されたら、私は矛盾点をたくさん含みながら精一杯、「なぜ人を殺してはいけないのか?」をしゃべろうと思います。その前にまずは【知ること】からです。いのちの食べかた (よりみちパン!セ)